
宅地の価額がおおむね同一と認められる一連の宅地が面している路線(公衆が通行する道路のこと)について、その路線に面する宅地の1平方メートル当たりの価額を千円単位で表示したものを「路線価」と言う。 宅地の価格水準が基本的にはその宅地が面する道路によって決定されるという発想にもとづいて、宅地の価格水準を道路ごとに表示したものと考えることができる。 公的な土地評価では、相続財産評価及び固定資産税評価においてこの路線価が使用されている。 相続財産評価では市街地の宅地については路線ごとに「路線価」を定め、この路線価を基準として各種の補正率を適用し、宅地の財産評価を行なう。 この相続財産評価の路線価は、地価公示価格・売買実例価額・鑑定評価額・精通者意見価格などを参考として各国税局の局長が評定する。評定の基礎となる「標準宅地」としては全国で約40万地点が定められている。 この相続財産評価の路線価は、毎年1月1日を評価時点として評定され、毎年8月上旬に一般に公開されている。 なお、相続財産評価の路線価は、平成4年以降は地価公示の8割程度となるように評定されている。 為替が開発したのは箱を覗き込むと、その中に動画をみることができるというもの。リュミエール兄弟が開発したのは、その仕組みを箱から、スクリーンへと投射するものへと改良し、一度により多くの人が動画を観賞することができるようにしたもの。現在の映画の形態を考慮すると、リュミエール兄弟の最初の映画の公開をもって映画の起源とする方が有力な説となる。 リュミエール兄弟らが公開した世界最初の映画群は、駅のプラットフォームに蒸気機関車がやってくる情景をワンショットで撮したもの(『シオタ駅への列車の到着』)や、自分が経営する工場から仕事を終えた従業員達が出てくる姿を映したもの(『工場の出口』)など、計12作品。いずれも上映時間数分のショートフィルムだった。初めて映画を見る観客は「列車の到着」を見て、画面内で迫ってくる列車を恐れて観客席から飛び退いたという逸話も残っている。これらの映画の多くは単なる情景描写に過ぎなかったが、やがて筋書きを含む演出の作品が作られるようになった。例えば『水をかけられた散水夫』という作品は、散水夫がホースで水を撒いていると別な男がホースの根元を踏んで水が出なくなり、散水夫がホースを覗き込むとその男は足を離して散水夫がずぶぬれになるという筋書きで、数分の動画の中に筋書きと笑いの要素を含んでおり、コメディ映画の発端のひとつとなった。またこの頃は著作権に関する意識が無く、フランス以外でもイギリスなどで同じような『散水夫』の模倣作品が数通り作られている。 なお、最初の作品はリュミエール兄弟が経営していた工場から従業員が出てくるシーンを捉えた『工場の出口』で、リュミエール兄弟は1894年末頃に撮影したとしているが詳細は不明。また、この作品はグラン・カフェで上映された12本のうちの1本とは別なバージョン(『工場の出口』は4つのバージョンがある)。 初期の映画は、画像のみで音声のないサイレント映画と呼ばれるもので、日本では別名「活動写真」とも呼ばれ、映画館は「活動小屋」とも呼ばれた。日本独自の上映手法として、上映中の場面に合わせて解説を行う「活動弁士」と呼ばれる人が活躍していたといわれる。 外貨預金に、世界で初めて物語構成を持ち、複数のシーンで構成された映画『月世界旅行』がフランスで制作される。監督は元来マジシャンで、世界で最初の職業映画作家でもあるジョルジュ・メリエス。この作品は、初のSF映画である。 翌年の1903年にアメリカでも、エドウィン・ポーター監督による物語性のある作品『大列車強盗』が制作・公開される。この作品において、初めてクロスカッティングが用いられた。また、本作品は初の西部劇でもある。 1906年にジェームズ・スチュアート・ブラックトン監督による『愉快な百面相』が制作される。実写ではなく絵画表現を用いた世界初のアニメ映画とされる。 メジャーになりつつあった映画制作会社からの制約や支配を嫌い、またニッケルオデオンで消費されるだけのショートフィルムに飽きたらずに新しい表現を求めた若い映画人達が西海岸に移住し、映画都市・ハリウッドが形成され始める。 アメリカの映画監督であるD・W・グリフィスが、『國民の創生』(1915年)、『イントレランス』(1916年)、『散り行く花』(1919年)等により、クローズアップ等の様々な映画技法(映画文法とも呼ばれる)を発明し、今日的な意味における映画の原型を完成させる。このことによりグリフィスは後に「映画の父」と呼ばれるようになる。 政治権力は映画の持つ影響力に目を付け、プロパガンダの手段として使うようにもなった。第一次世界大戦においてはアメリカやドイツでプロパガンダ作品が制作された。ヴァイマル共和政下のドイツは複数の映画会社が合併して国策撮影所であるウーファー(UFA)が設営された。 1910年代-1920年代、アメリカやヨーロッパでは『ファントマ』シリーズや『吸血ギャング団』シリーズ(いずれもフランス)などの連続活劇が流行。 IPO、ソ連において世界初の国立映画学校が創設され、クレショフがその教授として招聘された。クレショフは同校においてクレショフ映画実験工房(一般的にはクレショフ工房と略称で呼ばれる)なるワークショップを運営し、モンタージュ理論を打ち立てると共に、その実験を行った。 1921年、ドイツでハンス・リヒターにより、ダダイズムの一表現として幾何学模様の変容を映した『絶対映画』というアニメーション映画が作られる。遅れて1927年、マルセル・デュシャンによってフランスでも幾何学模様の変容(デュシャン作品は円盤の回転)による『純粋映画』が試みられた。ダダイズムのグループは実写による筋書き(ただし一貫性のある物語ではない)を持つ映画『幕間』も作っており、こちらはデュシャン本人をはじめエリック・サティなどが出演している。上映用の付随音楽はサティによって作曲され、これがサティの遺作となった。 1925年、クレショフ工房の生徒であったセルゲイ・エイゼンシュテインはモンタージュ理論に基づき『戦艦ポチョムキン』を制作。エイゼンシュテインと共にクレショフ工房の出身者であったフセボロド・プドフキンやボリス・バルネット、ジガ・ヴェルトフなどはモンタージュ理論を元にした作品を製作し、ロシア・アヴァンギャルドにおける代表的映画監督となる。 株、イタリアでヴェネチア国際映画祭が始まる。 1935年、世界初のカラー映画ルーベン・マムーリアンの『虚栄の市』が公開。テクニカラーによる。


