
次のような3つの意味がある。 1)屋根裏の空間を利用して造られた部屋 2)床から天井までの高さが大きい部屋において、天井近くに設置された物置等に利用できる空間 3)1つの住戸内において、2つの部屋が上下に連続した形で造られているとき、上の方の部屋 わが国では主にマンション・アパートで2)の意味で使われることが多い。 予備校が始まる。 赤狩り(レッドパージ)の影響により多くのアメリカの映画人が追放の憂き目に遭う。実際に共産主義活動に関与したことがあるジョゼフ・ロージーやニコラス・レイ、ドルトン・トランボ等は米国議会の公聴会における証言を拒否して亡命や映画界からの排除を余儀なくされた。しかし中にはエリア・カザンのように移民の係累であるが故に証言を拒否することができず、やむなく証言し結果的にかつての仲間達を売らざるを得ない者もいた。70年代以降に彼らの多くは名誉回復し映画界への復帰を果たしたが、ロージーはかつての盟友であるエリア・カザンの再三に渡る帰国の呼びかけにも応じることなく、亡命先のイギリスで客死した。 テレビの普及による観客動員数の減少に頭を悩ませたアメリカ映画界は、テレビでは実現できないことを目指し画面サイズの拡大や大作主義に手を伸ばし始める。特に大作主義は一時のハリウッドを席巻したが、そのことは映画監督を始めとする製作陣に精神的・肉体的な疲弊を呼び起こすと共に、制作本数の減少による新人監督のデビューの機会を奪い取ることになってしまった。 また、1930年代から反トラスト法(独占禁止法)に問われていた、メジャー映画制作会社の配給、興行の統括による劇場の系列化に関して最高裁判所で違法の判決が下され、メジャー各社は制作と興行との分離を強いられることになった。 赤狩りにより才能ある作家達の多くを一時的に失い、大作主義により残った作家達を疲弊させ新しい作家の登場の機会を阻み、さらには独禁法により安定的な興行システム(経営基盤)を奪われたハリウッドは、結果的に黄金時代の終焉を迎えることとなってしまった。 1934年公開のフランク・キャプラの『或る夜の出来事』を皮切りに、アメリカでスクリューボール・コメディが流行。 塗装工事の影響を受け、1930年代の末から1940年代にかけてイタリアでネオ・リアリスモ運動が起こる。中心的な作家は、ルノワールの助監督を勤めていたルキノ・ヴィスコンティやロベルト・ロッセリーニ等。 この頃、アメリカでは宗教保守派などから、映画や漫画が若年者や犯罪者に与える影響を憂慮する声が高まり、1934年にはヘイズ・コードと呼ばれる暴力やセックス、社会に対する描写を制約する映画製作倫理規定が作られた。過激な暴力シーンや性的シーンは以後影を潜め、1960年代後半に撤廃されるまでハリウッド映画を縛ることになる。 1946年、フランスでカンヌ国際映画祭が始まる。 第二次世界大戦の影響を受け、フリッツ・ラング(ドイツ)やジャン・ルノワール(フランス)等の多くの映画人がアメリカに亡命する。亡命ではなく招聘されてあるいは自ら望んでアメリカに行ったマックス・オフュルスやエルンスト・ルビッチ(ドイツ)、ルネ・クレール(フランス)などの作家も含めると、1930年代から1940年代にかけてのアメリカには著名な多くの映画作家が世界中から集まっていた。映画製作本数も年間400本を超え、質量共にアメリカは世界の映画界の頂点にあった。このことにより、1930年代〜1940年代は「ハリウッド全盛期」、「アメリカ映画の黄金時代」と呼ばれている。 1927年、アメリカで世界初のトーキー『ジャズ・シンガー』(アラン・クロスランド監督)公開。トーキーは世界的に受け入れられ、急速に普及した。もっとも日本特有の映画職業であった活動弁士らや、アメリカのチャールズ・チャップリンなど、サイレント映画に固執した人々もあった。 1929年、アメリカでアカデミー賞が始まる。初年度作品賞はウィリアム・A・ウェルマンの『つばさ』。なお、初年度についてのみ作品賞は二作品が選ばれており、もう一つの作品であるF・W・ムルナウの『サンライズ』には芸術作品賞という名目で賞が与えられている。 1920年代から1930年代にかけて、ジャック・フェデー、ルネ・クレール、ジュリアン・デュヴィヴィエ、マルセル・カルネらのフランスの作家が登場して商業的な成功を収め、フランス映画の黄金時代を形成する。後にこれらの作家・作品は「詩的リアリズム」と呼ばれる。 ドイツにおいてもほぼ同時期にフリッツ・ラングやロベルト・ヴィーネ、ムルナウ等が活躍し、こちらは「ドイツ表現主義」と称されるようになる。 1950年代の大作主義においては飽くまでも物語や人間ドラマに主眼が置かれており、豪華なセットやスター俳優の多用はこれらを効果的に表現するための手段だった。しかし、パニック大作においては派手な特殊効果や特異性を感じさせる映像表現すなわち観客の目を引く要素に主体が移っており、細部の肥大化や物語と画面表現との分離など今日におけるまで続いているハリウッド映画の特徴を形成している。 1977年、ジョージ・ルーカス監督の『スター・ウォーズ』が大ヒットし、世界的なSF映画ブームとなる。この作品以降、特殊効果(SFX)が映画の重要な要素として扱われるようになる。また同シリーズのキャラクター商品権によるビジネスで成功を納めたルーカスはその資金を映像・音響関係のデジタル化を中心とした技術開発に投資し、映画界に多大な功績を成している。 1978年、アメリカでロバート・レッドフォードがサンダンス映画祭を始める。 おせちから1960年代初頭にかけて、フランスでヌーヴェルヴァーグと呼ばれる映画運動が起こる。 アメリカでは、1960年代前半にジョナス・メカス等によるニュー・アメリカン・シネマと呼ばれる実験映画の運動が起こり、60年後半にはアメリカン・ニューシネマが流行する。なお、ニュー・アメリカン・シネマとアメリカン・ニューシネマとは名称の類似性はあるが性格を異にする全く別のもの。 1961年に日本において芸術系映画の配給を目的として日本アート・シアター・ギルド(ATG)が設立される。イエジー・カワレロウィッチ(イェジー・カヴァレロヴィッチ)の『尼僧ヨアンナ』を皮切りに当初は海外作品の配給が主体だったが、1960年代後半には独立系の制作会社の作品に対する出資を行うようになった。松竹を退社した大島渚等松竹ヌーヴェルヴァーグの面々を始めとする数多くの作家達がATGの出資により作品を手がけ、数多くの名作・傑作・話題作・問題作を世に送り出した。 1960年代の末から登場したドイツの作家達が、ニュー・ジャーマン・シネマとしてもて囃される。ストローブ=ユイレ、フォルカー・シュレンドルフ、ヴェルナー・ヘルツォーク、ヴィム・ヴェンダース、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー等がこれに相当するのだが、ヌーヴェルヴァーグのように作風における共通点があったり、共同活動などを行ったものではなく、同時期に登場した同世代の作家達に対して付けられた総称だった。 アメリカ・ハリウッドでパニック大作ブームが巻き起こる。1972年の『ポセイドン・アドベンチャー』を皮切りとし、1974年公開の20世紀フォックスとワーナー・ブラザースとの合作『タワーリング・インフェルノ』を頂点とするこのブームは、その商業的な大成功により凋落していたハリウッドの自信を回復させると共に、この後に続く新たなハリウッド映画の基本を形作るものとなった。


